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『紫色のクオリア』


紫色のクオリア (電撃文庫)紫色のクオリア (電撃文庫)
(2009/07/10)
うえお 久光

商品詳細を見る



内容(「BOOK」データベースより)
自分以外の人間が“ロボット”に見えるという紫色の瞳を持った中学生・毬井ゆかり。クラスでは天然系(?)少女としてマスコット的扱いを受けるゆかりだが、しかし彼女の周囲では、確かに奇妙な出来事が起こっている…ような?イラストは『JINKI』シリーズの綱島志朗が担当。「電撃文庫MAGAZINE増刊」で好評を博したコラボレーション小説が、書き下ろしを加え待望の文庫化!巻末には描き下ろし四コマのほか、設定資料も収録。





『クオリア』という言葉がある。
知ってる方も多いだろうが、いわゆる『感じ方』、『感想』のことだ。
赤い文字を見たら、あなたは『赤い』と感じるだろう。でも、その『赤さ』を誰かに伝えるとき、どうやって伝える?だって、もしかしたら、他の人にとって『赤色』というのはこの色かもしれないのだ。
もしかするとあなたは「赤色っていうのは、血の色と同じ色だよ」と説明するかもしれない。でも、赤色がこの色に見えている人からすれば、血の色もやはりこの色だ。その人の視点では夕日トマトこの色に見えるのである。


さてそして、本作に登場する紫色の瞳を持つ少女、毬井ゆかりは、人間がロボットに見えるという。


この作品には、様々な哲学用語、科学用語が登場する。
哲学的ゾンビ、二重スリット、シュレティンガーの猫、コペンハーゲン解釈、多世界解釈、そして、クオリアなど。量子学の分野の用語が多いかな。もちろん作中で説明されるのだが、分かりにくいという人もいるかもしれない。

哲学というのは『考える』ためにあるもので、哲学の代名詞と言ってもいいクオリアの考えを軸に展開していくこの作品は『考えさせられる』、『考えさせてくれる』作品であるといえる。
しかし、この作品は哲学書ではなく、ライトノベルである。だからあくまでも哲学は物語を引き立てるために使われているファクターに過ぎない、と僕は思っている。

哲学は考えるためにある、と書いた。そして、考えるというのは「当たり前のことを疑ってみる」ということだ。誰の目から見てもかもしれない。でも、それはどうやっても説明の出来ないことだ。もしかしたらあなたのが誰かにとってはかもしれなくて、もしそうだったら私たちは同じものを見ているように話しながら、実はまったく違うものを見ているのかもしれない。
晴れ渡った青い空を見上げながらあなたが「とても清々しい気分になる空だね」と話しかけた相手は、青い空を見ながら「うん、そうだね」と笑顔で頷いているのかもしれない。

そうやって考えていくと、なんだか怖くならないだろうか。当たり前のことを疑うと、考えを深めていくと、すべてが不確かなものに見えてきて、僕なんかは背筋がゾッとしたり不安になったりする。お化けや幽霊とは違った類の、根本的な本能的な不安感、恐怖感、違和感がやってくる。そして、それが哲学の特性でもあるように僕は思っている。

話を作品に戻そう。この作品は「人間がロボットに見える」という少女、毬井ゆかりの友達である波濤学(はとう まなぶ)を主人公とした物語だ。人間がロボットに見えるということは、見え方が違うということ。つまりは、クオリアが違う。その違いは色の識別とかいう次元の違いではなく、もっと根本的な違い。異質。普通であればどうやっても相容れない存在。それ故に、ゾッとするような台詞が飛び出たり、そういった描写がなされたりする。実際に、読み進めている途中であの幽霊とは違った不安感に襲われた気がする。
そして、その不安感こそがこの作品をより面白くしている、と僕は思うのだ。

あらかじめ断っておくと、毬井ゆかりはすごくかわいい。小さくてかわいい、話し方もかわいい。
主人公の波濤学との掛け合いも微笑ましく、ほのぼのとした日常の描写がよく見られる。
しかし、そこにクオリアという違和感発生装置を持ち込むことで、その日常は見え方が変わる。『不思議さ』と表現するには気持ち悪さが勝っている。いわば『奇妙さ』がその日常に現れてくる。そしてそれはごく自然に紙面で表現され、決して非日常ではないいつもの日常の中に、当たり前の中に、違和感が溶け込む。

このほのぼのとした日常の中に生まれる違和感、奇妙さ、このギャップがこの作品の印象を僕の中で強烈なものにし、また面白いと感じさせる一つの要因になっているのだろうと思う。身近で、でも果てしない、強大なテーマである哲学。その面白さと怖さ、それをうまく組み込んだ作品になっている気がする。

しかし、これはもちろん哲学ばかりの作品ではない。それはつまり、『考えること』ばかりの作品ではない、ということだ。考える力を持っていても、時には考えなしに、行き当たりばったりに、感情のままに行動できるのが人間だと思う。あれこれ考えることをやめて、想いのままに行動する。そういう勇気も必要だし、実際本作でもその勇気が物語を大きく動かす。だから、やっぱりこの作品は哲学書ではなく、ライトノベルである。

ドキリとする描写や気味の悪さ、不安感を生む設定。しかし、物語は最後には優しい形で締めくくられる。
そして、それがきっと最善の終わり方のように僕には思える。

作中で、光の性質が語られる。
「二点間を結ぶ光は、取りうるあらゆる経路のなかで、最小の時間で到達できるルートを通る」というもので、これをフェルマーの原理というのだが、これではまるで光が意志を持ってルートを決定しているようで、おかしい。これを説明するのが、「光はありとあらゆるルートを同時に通っており、最短ルート以外を通った光以外は干渉しあって消えるのだ」という量子学の考え方。

きっと、作者もまた光と同じように試行錯誤し、色んな可能性を考えて、最も素晴らしいルートを選んだのだろう。僕はそう思いたい。はたまた、作家とはそういうものなのかもしれない。物語を作る人は、みなそうやってあらゆる可能性を旅して、最善の道を見つけるのかもしれない。作家とは、もしかすると光なのだ。





……となんかかっこいいこと言って終わりにしようとしてますが普通に話が逸れているので戻します。これは作家と光があーだこーだ言う記事ではなく、『紫色のクオリア』を紹介する記事なのですから。
といってもまぁもうあまり書くことは無いですが、とにかく考えさせられる作品なので良かったら買って読んでみてください。読み終えたばかりのくせに絶賛オススメ中です。

あと、余談というか本作からは少し離れるのですが、本作でもたくさん出てくる哲学、量子学についての面白い本があるので紹介したいと思います。


哲学的な何か、あと科学とか哲学的な何か、あと科学とか
(2006/11/30)
飲茶

商品詳細を見る


この『哲学的な何か、あと科学とか』という本です。2年位前に哲学にハマってしまったときに買ったのですが、面白くて余計にドハマりしました。難しいことをすごく噛み砕いて説明してくれているので読みやすく、すごくオススメしている本です。多分『紫色のクオリア』に出てくる哲学用語がすんなり理解できたのはこの本のおかげ。という訳でこちらも良ければ。

といった形で今回の記事はおしまいです。
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